創業当時は鍬、鎌などを作っていたが、戦後、食料増産の必要性から農業機械の発展が著しく、それに伴って主力製品はトラクターの消耗品である「爪」に代わっていった。トラクターの全国的な普及と共にその生産数も増加し、会社の新たな柱となった。現在はワッシャーへのシフトにより爪の生産は終了しているが、「村の鍛冶屋」から「会社」への成長を力強く後押しした大切な製品である。
1965年(昭和40年)1月20日会社の安定的な成長を目指して、株式会社小野製作所を資本金200万円で設立。社長に小野孟就任。
1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)にかけては、東京オリンピック終了後の需要減少に端を発し日本経済は低迷し始める。相次ぐ大手企業の倒産、さらに証券市場の低迷により証券会社が軒並み赤字になるなど「証券不況」と呼ばれ、厳しい不況下でのスタートとなった。
1969年(昭和44年)国の減反政策が始まり、当時の主力製品であるトラクターの爪の需要が落ち込むことが確実な状況下で、「ワッシャーを作ってみないか」と、お声かけを頂く。大阪万博前の建築ブームの中で、「ボルトはあるがワッシャー がない状況」とのこと。新規参入を決意するも、後発のメーカーであるがゆえ、同じやり方では生き残ることは難しいと考え、当時主流のフラットバーからの生産ではなく、新しくコイル材での連続打抜きの技術を確立。当時は車部品の下請等もおこなっていたが、自社で材料を仕入れ、値段を付ける製品を製造したいという強い思いで、ワッシャー生産に本格的に取り組むこととなった。
1965年(昭和40年)頃から製造されていたハイテンションボルトの需要が拡大。官公庁の物件への採用が始まるにあたり、日本工業規格の制定を通産省が決定。全国に30社以上あったワッシャーメーカーのうち、当社を含む数社がJISマーク表示許可工場となる。このことが後の飛躍の第一歩となる。キックオフから認定まで2年近い年月を要した。
1977年(昭和52年)国内向けのワッシャー生産が軌道に乗りつつあることから、海外輸出への挑戦を決意。国内の大手商社に営業をかけるも、初めての取引はアメリカの商社にわずか1パレット。小さな一歩であったが、それを足がかりに徐々に販路を拡大していく。イランの首都テヘラン近郊の送電線鉄塔、台湾新幹線の橋脚等、多くの海外の大プロジェクトに当社の製品が使用されている。世界20ヵ国で当社の製品が使われており、アメリカ合衆国ではハワイ州を含む全州に輸出の実績があり、現在に至るまで45年に亘り、毎月途切れることなく輸出を続けている。
1969年の生産開始から11年目に国内シェアNo.1を獲得。後発メーカーである私たちがトップシェアカンパニーとなることができたのは、ひとえに私たちの製品を信頼して購入してくださったお客様のおかげと心からの感謝を胸に、これからも品質向上の歩みを止めることなく、喜んで頂ける製品を作り続けていくことを誓った。
1987年(昭和62年)玉野市の誘致を受け、玉野市玉原に新たに造成された玉原企業団地に進出。山を切り開いて開発された工業団地で、地盤も強固で災害に強いことが進出の決め手となる。1987年玉原第一工場竣工。建設当初はプレス1ラインを設置。その後プレス生産ラインの増設により、第一工場はプレス専門工場に。その後1997年熱処理工場として第二工場竣工。2005年第三工場、2007年事務所棟が完成し、玉原の地に一貫生産体制が整う。現在は主力工場として24時間体制で生産をおこなっている。
1997年(平成9年)取引先のボルトメーカーよりお誘いを頂いて東京湾アクアラインのプロジェクトに参加。数多くの新技術・新工法が開発・実用化され「土木のアポロ計画」と呼ばれた世紀のプロジェクトに参加できたことは会社の大きな財産となった。海底トンネル部分8工区すべて当社のワッシャーが使用されている。巨大地震が発生したときの耐久性も、2011年(平成23年)に発生した東日本大震災において全く被害がなかったことで立証された。
2010年(平成22年)将来的に建築物は大型化・高層化していくであろうことを予測し、ヘビースタンピングマシンの生産ラインを新設。大径ハイテン用座金やアンカーボルト、風力発電などに使用される精度の高い大型製品を生み出している。
2011年(平成23年)昭和42年に現在の場所に移転してから、会社の成長と発展と共に広げていった本社工場を、創業者没後50年の年に建て替えを決意。迷路のようになっていた建物の解体は困難を極めたが無事成功。奇しくも解体工事で一番の難工事が予想される日が創業者の命日であり深い縁と不思議を感じる1日となった。新本社工場竣工の際には、祝賀会を開催。多くの御取引先様のご臨席を賜り、温かいお祝いのお言葉を頂戴した。
2015年(平成27年)法人設立から半世紀の節目に、お取引様への感謝の意を込めて祝賀会を挙行。古くからのお付き合いの皆様が駆けつけて下さり、温かいご祝辞を賜った。その中で頂いた言葉である「不易流行」いつまでも変わらないものの中に新しい変化を取り入れていくこと。これからの50年もそうありたいと肝に銘じ今後のさらなる成長を誓った。